前日の毎日ライブトークショーでテンション使い切ったような感じになっていた私ですがw、実はその翌日18日の「真田丸」最終回パブリックビューイングにも当選していまして。これが始まるのが17時15分頃からということで、それまでの時間の使い方を全く考えてなかった私。イベントで村上新悟さんに会うことに集中しすぎていたためw翌日イベントまでの過ごし方を考慮しておらず途方に暮れていたところ…、前日お会いしたSNSのお友達が誘ってくださったのが「真田丸シンポジウム」でした。時代考証の先生が3人集結して真田丸に関する歴史的な裏話を披露してくださるトークショーがあるということをこの時初めて知った次第で。せっかくなのでご一緒させていただくことにしました。
途中で声をかけてくださったもう一人の真田丸ファンの方ともご一緒したおかげで、よく分からなかった道すがらも無事にたどり着くことができてホッとしました(私は特に極度の方向音痴なので 汗)。あの時ご一緒できて本当に良かったです。ありがとうございました。
上田駅からバスで20分以上…かなり山の中のほうだったでしょうか。最初はあまり人の集まりが良くなかったようでしたが、講演会が始まるころには300人入る会場もほぼ埋まるという盛況ぶりでした。
壇上には小栗さくらさんから贈られた豪華なお花が飾ってありましたよ~。さくらさんのこういう気遣い本当に素敵ですね。
上田映劇での暗さとは裏腹にこの会場はとても明るかったのでけっこうメモ取れました。が、前日の疲れがたたって途中少しだけ意識が…。そこだけは記憶が飛んでしまってましてホント申し訳ないです(汗)。
講演は1部と2部に分かれて行われまして、休憩時間の間に事前に募集した質問を先生方が整理するといった形となりました。ということで、さっそく内容について少しレポしていきます。
『真田丸』シンポジウム ~大河ドラマ最終回に向けて~
ゲスト : 平山優先生、黒田基樹先生、丸島和洋先生
於.真田中央公民館(長野県真田町)
2016.12.18 14:00~16:00
写真撮影は自由だったので少しだけ撮らせていただきました。当日のお三方の雰囲気はこんな感じです。平山先生は初めて拝見することになったわけですが…第一印象で真っ先に思ったのが…「あ、ヨン様」でしたww。いやだって、なんか、見た目がそう感じてしまったものでww。実年齢よりもお若く見えてビックリしました。司会者がいなかったので実質的にトークを回していたのは平山先生でしたね。登場するなり「わたしたち考証’sと名乗ってます」とのっけからコメントしてて笑いました。
平山先生のトークはさらに面白く、黒田先生に先に「真田信之」の本を出されてしまったとボヤいたりww、真田丸飲み会で初めて洋ちゃんに会った時本を書いてることを伝えたら「もうすぐ撮影終わっちゃうんだよねぇ」と言われてしまったと洋ちゃんのモノマネして再現してくれてたりwwなんとも面白い方だなぁと思いました。ちなみに本を出すのに一番早いのが黒田先生で、次が平山先生、一番遅いのが丸島先生らしいですww。
丸島先生
放送前に弁丸(信繁の幼名)が木曽から出した手紙が出てきたとプロデューサーに話したら「信繁が木曽から帰ってこないと困るから使えない」と言われたそう。しかし三谷さんが、木曽義昌が信繁の祖母とりさんに頭が上がらないシーンを書いてくれて上手い具合に絡めてくれて助かったと。出てきた手紙は信繁が木曽に人質に行ったときに書いた手紙だったそうです。
黒田先生
調べる中で出てきた新しい事実の一つだったのが信繁が秀吉の馬廻りだったということ。秀吉が朝鮮出兵で名護屋城へ行っている時に留守を守っていた人の中に「真田源次」という名前がありその当時この名前を使ったのは信繁しかいないということで確実視したのだそう。ドラマの制作としては上杉と一緒に信繁を大阪に連れて行きたい意図があって、その後どう動かして秀吉の傍に信繁を持っていけばいいのか話し合っていた最中。この時まだ馬廻りの事実確認が取れていなかったので、信繁は三成の居候という立場に持っていこうということになっていたんだそうです。
ドラマとしては常に主人公を主要人物の傍に持って行かざるを得ない事情があるので(笑)制作はかなり頭をひねっていたそうですが、その時に馬廻りだったことがハッキリわかってあのような形になったと。秀吉の馬廻りという設定が生かせたことでドラマでも信繁が最後まで豊臣に恩義を感じているという風に描くことができたのでよかったと語られてました。
平山先生
木曽にいたことや馬廻りだったことが分かった時は本当にびっくりして嬉しかったそうです。歴史というのは常に動くものであり解釈が変わったり新資料が出てきたりするものですと。通説は固定化されたものではないということはかなり強調されてました。今回三谷さんは考証の意見をたくさん取り入れてくれて感謝しているそうですが、大河ドラマ放送中は皆さん三谷さんにほぼ会ったことがないそうです。丸島先生だけはちょこっと会ったことがあったようですが。
これまで描かれてきた通説と違う点で印象深かったエピソードについて。
丸島先生
秀次事件。当初は秀次が抗議のために自発的に切腹した説を入れようかと思っていたものの納得はしていなかったそう。その時ある先生と話していて、秀次は高野山へ自分から出奔してしまったという論文があると聞いたと。これを読んだときにすごく腑に落ちるものがあってプロデューサーと相談して使うことになったと。三谷さんのアレンジも少しはいっていたものの、良いシーンになったと満足げでした。ちなみ秀吉が秀次の死にショックを受けて怒り狂うシーンの所、本当はそのあと三成が「私が全て泥をかぶる」というカッコいいセリフがあったのにカットされてしまったと残念そうでした。
秀次の新事実がこのタイミング出てきたのはとても良かったと平山先生。新納くんの熱演もかなり光っていたのも印象的だったと。新納くんは秀次関係の抱擁などには必ず顔を出しているんだそうです。
黒田先生
今通説とされているものは江戸時代に創られたものが多く、最近ようやく調べが進んでいろんなことが分かってきたそう。そのうちのひとつが第二次上田合戦の秀忠の行動。これまでは秀忠が勝手に上田を攻めて失敗して関ヶ原に遅れたということになっていましたが、最新の研究は秀忠の第一の目標は上田を攻略して先に進むことだったというのが有力だと。いろいろ事情があって家康の出陣がバタバタになった影響で秀忠に上田は後回しにしろという命が下ったというのが真相らしいそうですね。
あと関ヶ原の新事実としては秀秋が関ヶ原当日に裏切ったというのは江戸時代の創作だそうで、実はその前日から秀秋が徳川につくことは決まっていたと。秀秋は開戦と同時に大谷吉継を攻め立てて昼過ぎには雌雄が決していたそうな…。ある資料には8時には開戦して10時には終わったと書いてあるらしい。こんな感じで従来までの関ヶ原説は今ではだいぶ変わってきているとの事でした。
平山先生はこれに関連して、これまでの歴史の通説は後年作られた机上の空論みたいなものが非常に多いので、若い研究者には基礎からきちんと調べてほしいと力説していました。
平山先生
大坂冬の陣の後に家康から大坂城の堀を埋めろと強制的に言われたというのが通説でしたが、実はあれは合意説が有力なんだそう。内堀は豊臣が埋めて総堀は徳川が埋めるということで決着していた。人が亡くなると人ごと埋めていたらしく、今でも発掘していると人骨が出てくることもあるんだとか。その当時は雪が降るほど寒くて徳川は埋め立てをものすごく急がせたとのこと。
豊臣がなぜ堀埋めるのに了承したのかは、平山先生的には牢人に諦めてもらう為だと思っているそうです(まだ確定事項ではないそうですが)。
丸島先生
関ヶ原はやらないことは最初から決まっていたので、三谷さん的にはそれまでの心情を描きたいという希望があったそう。それに伴い制作にお願いした一つとして「五大老は使わないでほしい」ということだったと(大人衆になった)。それから三成の家康襲撃未遂事件を入れてもらった。七将襲撃事件に関しては通説では三成が家康屋敷に逃げ込んだとされていますが、実際は伏見城内の三成屋敷に逃げ込んだことが分かっていたのでそれを採用したところ、話が違うという拒否反応が出てしまったと苦笑いしてました。でも、三谷さんは自分たちの要望以上のものをドラマに取り入れてくれたと語っていましたね。
もう一つは大谷吉継の病について。皮膚病というのは間違いないそうで、直江兼続への書状の中に「温泉で療養してきました」という一文があるらしいです。兼続と吉継・・・けっこういい関係だったんだな~と思わず反応してしまった。この頃から目はよく見えなかったようで刻印を使用してたと。それをドラマで採用してもらえたようです。
もう一つ誤解を招いてるのが三成の茶会。吉継の皮膚の一部がお茶に落ちてしまったのを三成が飲むというエピソードですが、あれは創作で。実際は飲んだのが秀吉で落ちたのは鼻水だったとのこと。
小物類もかなり携わったということで、書状などは丸島先生がほぼ担当(黒田先生がチェック係)し、平山先生は主に地図作りを担当したのだそうです。
※このあたりはメモが読めない状態です(爆)。すみません
平山先生
第一次上田合戦の地図を作った時に「虚空蔵山」という山の名前を入れていたら、以前に「虚空蔵山城」が出てきたので(直江兼続が「猿芝居じゃ」の名セリフを言ったあの時の城ですな)名前を変えてほしいという依頼があったと。そこで思いついたのが地元の人にしかわからない「かいこ山」という名称だったそう。「あれはただの小高い山なんですよ」と力説してたなww。周囲(上田の人)からは「そんな山知らない」って言われたけど地元・真田町の人たちは「かいこ山」の存在を知っているということで会場からもチラホラ挙手が上がり「ほらほら!」と平山先生ドヤ顔してましたww。
でも、ドラマでも草刈さんが「かいこ山」とセリフの中で言ってくれて喜んでいたら、「そんな山知らないぞ」という苦情めいたものが殺到して大変だったらしいです
丸島先生
書状作成に携わった数は177通にも上るとの事(僕は書いてないと前もって仰ってましたがw)!花押も当時のものをコピーしたものを制作陣に渡すという細かい作業も担当していたそうです。美術さんからは寸法とかも質問されて「細かいな」と苦笑いだったらしいw。
書状に関してはテレビを見ていて画面をストップしてわざわざチェックしている人がいるらしく「あの内容はよくできている」とかそういった感想がきていてビックリしたと(映像技術が進んじゃったからと平山先生は笑ってましたw)。
家康についての話題。平山先生曰く、家康自身には秀頼を潰そうという気持ちは全くなかったとの事。大坂夏の陣に関して資料を見ると「大坂国替」とあるし、駆けつける時は武装しないようにというお達しもあったようです。
考証sで意見が割れたのは、小松殿(ドラマでは稲さん)が関ヶ原開戦の時に沼田に戻っていたかどうか・・・ということだったそう。黒田先生は大坂にいた説、平山先生は沼田にいた説、丸島先生も沼田にいた説ということで、未だにその点においては未だに揉めてる感じでした。
黒田先生
ドラマの進行上どうしても外してほしくないエピソードをリクエストされることも多かったそうで、その最もたるものが「犬伏」だったと。ある資料ではあの別れは犬伏ではなかったみたいな解釈も出てきてたらしく(手前の宿説)、犬伏で別れたかどうかは曖昧と。でもドラマ的には視聴者に分かりやすくしなければいけないので結局「犬伏」で統一させたのだそうです。
視聴者に分かりやすくというのは制作側から強く言われていたようで、乱の名前も漢字変換がすぐにできないものは外すように指示があったとか。「天下」の解釈についても家康や秀吉の時代は京都周辺を差しているもので、江戸時代後半から全国という意味に変わってきたというのが真実だけれども、現代は「全国」という意味が浸透しているのでドラマの中では意味合いとして「全国」という意味が少し薄まるニュアンスで「天下」という言葉を使ってもらったとの事です。色々言葉ひとつとっても細かい苦労があるんだなと思いました。
「幸村」名についてはもう仕方がなかったと3人(笑)。ただOPやナレーションなどでは「信繁」で統一してもらう事だけはこだわったようです。「幸村」という名前の由来がどうやって出てきたのか未だによく分からないと。江戸時代後期に突然出てきた名前なので、聞かれても分からないと答えたらドラマではあのような展開になったそうなw。九度山町の町長はドラマで「幸村」の名前ができるシーンを見て「幸せの村と宣伝できる」と大喜びしてたらしいですww。
平山先生曰く、これまでの大河ドラマの中でここまで視聴者と近いものはなかったと思うと。
平山先生は以前「武田信玄」に関わったことがあるそうですが、その時は脚本家と食事をしたりしながら案を練っていた。しかしながら今回は三谷さんに会うこともなくプロデューサーとのやり取りが多かったとのこと。「こっちの情報量多すぎだからプロデューサーに整理してもらわなきゃだったしね」とは丸島先生談ですw。
ただ、不満もやはりあるらしくww。
丸島先生は入院してしまった時、最初は「ゆっくり養生してください」と言ってくれたのにその舌の根も乾かないうちにプロデューサーから「これお願いします」みたいな依頼がちょくちょくきてたとw。続けてるうちに電話が来ないことがかえって不安に思うようになっていたら、今度は以来側のプロデューサーが倒れてたみたいなことがあったそう。
考証の先生たち、こんな感じで休みがほとんどない状態だったそう。すべてが終わったのがこの公演の前日に制作側から終了宣言があったとのことです。最後の考証は総集編のナレーションの内容チェックだったそうですよ。
平山先生の不満は「僕たち芸能人じゃないのに、真田丸のおかげでどこ行っても声かけられちゃう」ってことみたいです。丸島先生も「どこかに行っても必ず誰かいてサイン求められちゃうから仕方なくホテルで食事した」とか言ってたなww。皆さん、あまり、外で声をかけられるのは慣れていないようです(ホントか冗談か分かりませんけどww)
てな話になったところで第一部終了。休憩挟んで第二部になります。
第2部はひたすら事前に寄せられた質問に先生方が答えていくというスタイルで進んでいきました。メモができたものをずらっと並べていきます。
Q.きりは結局何者なのか?
分かっているのは高梨内記の娘ということだけ。信繁の三女四女は内記の娘の子供の可能性が高いと。信繁は2男6女の子供をもうけていて4女までが作兵衛の娘(梅)と内記の娘(きり)が信濃時代に産んだと推定。あとは九度山時代に産まれてるそう(暇だからね、とは平山先生談ww)
Q.すえについて
信繁の最初の娘すえは長生きしたそう(家光の時代まで生きた)。冬の陣の後に信繁がダンナさんに宛てた手紙は胸打つものがあるのだとか。
ちなみに信繁が春たち家族を政宗に預けたというのはドラマの創作との事です。実際はどうなったかよく分からないそうですが、片倉小十郎家に後妻に入ったのが信繁の娘ではないかと言われていると(彼女は乱捕りされて片倉家に入った説があるとのこと)。実際信繁の家族は大坂落城後にはぐれてしまい、竹林院(春)は子供と信繁の遺品を抱え九度山にかくまわれたものの捜索隊に捕らえられる。しかし殺されず京都で余生を送ったとのことです。春さん、波乱万丈の人生でしたね…。梅さんの末路は全くどうなったのか分からないそうです(上田合戦で死んだのはドラマの創作)
Q.信繁が信之の子供に会っていたというのは史実か?
会いに行ったのは史実だということですが、信吉が最後に信繁に会った時はまだ4歳だったとのこと。村松殿(松)に宛てた手紙では茂誠の子供にはよく会っていたことが分かる文面が綴られているようです。
Q.冬の陣で使われた大筒はどんなものか?
イギリス商人から購入したもの。ドラマでは一発しか打ち込んでませんでしたが、実際はボコボコになるほど打ちまくっていたと(その音は京都まで響いていた)。大坂城は鉄壁の城とドラマでさんざん言ってたけど実際はほころびが多く大筒打ち込まれて総構えの櫓は堀に落ちたと記録にあるそうな。家康が総攻撃を命じようとしたという記録もあるので、もしかしたら冬の陣で豊臣は滅んでいたかもしれないと。
ドラマでは砲弾が天守に命中してたけどあれは創作。天守に当たったという記録は一つもない。茶々の部屋が壊されて侍女が死んだというのは記録にあるそうです。
Q.架空の配役は誰?
加藤清正に井戸に落とされた人と、佐助、与八、九度山からついていった九兵衛(九度山から行った人はいるけど彼は架空の人物)
Q.信之は本当に正妻のほかに女性を求めていたのか?
当時はそういうものです(丸島先生談www)
Q.真田丸の中で妻にするならだれがいいですか?
丸島先生→「妻にするなら直江兼続でしょ!!!」wwwww
黒田先生→「おれは茶々さんだな」ww
Q.治部と刑部は御文庫で何を読んでいたのか?
財政の帳簿だと思います
Q.夏の陣前に信之が上洛して信繁を説得したのは本当の話か?
真田太平記出会った話を出したと思うので史実ではないです。九度山時代に一度だけ会いに行ったのは史実だとか。
Q.ドラマのなかでの一押し人物は?
黒田先生→北条氏政
平山先生→武田勝頼
丸島先生→おこう
おこうさんは色んな説があったけれどドラマではそのすべて生かした人物として描いてもらえたんだそう。
Q.意見が割れたときはどうしていたのか?
平山先生曰く、「丸島の意見優先です」とのことwwww
Q.真田丸で間に合わなかった学説は?
後藤又兵衛の戦死の経緯。「もっと早く出てよ~」とは平山先生談w
Q.九度山で歌っていた歌について
「雁金踊り」というネーミングをつけたのは丸島先生だそうです。「雁金踊り、上田祭りの時に踊ればいいのにねぇ」と思わず平山先生ポロリw。
Q.幸村は本当に銃で家康を襲おうとしたのか?
江戸時代の資料なので実際はどうか分からない
Q.3人とも声がいいので何か言ってください
丸島先生→「御屋形様は本気になられた」(村上さんのモノマネでやってましたww)
平山先生→「〃」(声だけは福山って言われるそうなwww)
黒田先生→「斬り捨てますか」(こちらも負けじと村上さん風味でwwww)
考証sの先生方の間でも、村上新悟さんの直江兼続は大人気でございました
Q.歴史資料調べる時に気を付けることは?また楽しいと思う瞬間は?
黒田先生
「まずは古文書は外国語だと思って辞書をきちんと引いて調べること。嬉しいことは新しい事実が分かった時。それがあるから研究は止められない」
平山先生
「研究者は肉体労働。資料集を読んだときにテーマを3つくらい見つけないと研究者失格」
丸島先生
「余談を持たないことが大切。徳川家を例に挙げれば家康は始めから豊臣を滅ぼすつもりはなく徳川を守ろうということで結果的にあのような形になってしまった。ゴールは設定しないことを忘れないでほしい。あとは先行研究に敬意を払うのも大切。楽しいのは新しい資料を見つけた時」
Q.歴史の仕事をやるうえでのアドバイスは?
とにかく地元を歩いて交流してほしい。辞書を引いても分からない、地元の人しかわからない話もある。それから展示するときにはストーリー性を持たせてほしいとの事でした。
Q.信繁と信之の性格の違いは?
会ったことがないのでわからないwww。信之は頑固っぽいけど。
Q.憎らしいけど憎めないキャラは?
現実にいる人だったら平山先生じゃないですか!という丸島先生に「黙れ小童!」と応戦する平山先生www。で結局丸島先生は「大蔵卿局です」とのことw。
Q.三谷脚本で一番驚いたエピソードは?
平山先生→太閤検地を升で表現したシーン
丸島先生→信繁が落書き事件の時に疑わしかった人を犯人に仕立ててしまったシーン(三谷さんは意識しないでこの場面を描いたと思うけど当時は本当にそういう風習があったらしい)
黒田先生→九度山で昌幸の晩年、自分は戦う人ではないと諦めるシーン。時代の移り変わりがよく出ていた
Q.真田十勇士は存在してない?
してないし、十勇士の一人は徳川方だったりしますwwww
Q.大野治長と信繁の実際の関係は?
治長は穏健派で信繁は主戦派だったので、実はあいつら仲悪かったのではないかと(黒田先生談ww)。盛親は抗戦派だったそう
Q.矢澤家について教えて
「矢沢はいいんじゃない?」(平山先生談wwww)
「三十郎だからね」(丸島先生談wwww)
あわれ、矢沢三十郎
Q.上田城を再建しなかったのは何故?
上田城は徹底的に破壊されてしまったので、やり直すの大変だっただろうしそんな暇なかったと思う
Q.三谷さんとのやり取りは?
直でやったことはないのですが、素朴な疑問はたくさんもらってそれに答える感じ。堀の埋め立てが五箇条に書いてないのはなぜかについては別の資料に書いてあったことが分かったなんてこともあったそう。
Q.堺さんが歴史資料で指摘したことでビックリしたエピソードは?
丸島先生が手配した関ヶ原の大名配置図の間違いを指摘したのはビックリした。「誰」の読み方は「たれ」か「だれ」かと聞いてきたことも。堺さんは「たれ」と言っていたので他の役者さんもそれに倣ったとか。
真田丸に関わって色々資料を調べてきたけど、基礎資料はほとんど発掘されていない。すべて解明するのには少なくとも5-6年はかかりそうとのことです。歴史資料は奥が深い…!
Q.出浦昌相の描かれ方についてどう思ったか?
素破がドロンしたり妙な物投げたりといったのは創作ですしあれは無しです(平山先生談w)
Q.また声がかかれば大河ドラマの考証をやってみたいか?担当するとしたら誰のどんな時代がいい?
黒田先生
研究者はもっと研究成果を出してほしいと思った。事前に知っていればよかったというものも多かった。吉継は三成の年下というのも最近判明。やりたい大河は「北条五代」
丸島先生
時代考証で出したことを制作が上手く使ってくれた。辛いことはあったけど不満はなく気持ちよく仕事をさせてもらえた。次はもう大変なのでやりたくないw。やりたい大河は「武田勝頼」
平山先生
20数年前とはかなり環境が変わったというのが第一印象。スタッフと濃密にかかわってやれたことはすごく嬉しかったしドラマを見ていて楽しかった(有働さんのナレも安定してきたしw)。色んな用語も出てきて考証中までもちょくちょく使ってた。有働さんにサインをお願いしたら「ナレ死担当」と一言添えてあったらしいww。やりたい大河は「武田勝頼」
最後に、「真田丸」最終回は録画せずにしっかり見てくださいと。「裏番組の○ってQ見ないで」(平山先生談ww)。最終回くらい高い視聴率でいきたいと気合のコメントをする平山先生なのでしたw。
丸島先生からは信尹叔父上(栗原英雄さん)からの伝言が伝えられることに。
「家に帰るまでが遠足です。真田丸は総集編を見るまでが真田丸なのでそれまでは下船しないでください」
これ、前日の調略ナイトで栗さんが最後にコメントしたやつですなw。丸島先生来てたのか~。
ということで、考証sの先生方のトークショーはこれにてお開きとなりました。様々な興味深い話が聴けてとても楽しかったです。箱丸する時にこの話を思い出すとさらに楽しめそう。
以上、真田丸考証の先生たちによるトークショーレポ終わります。
この後、急ぎ最終回PVの現場へ向かうことになったのですが…波乱含みでしてw。それはまた次のレポで
途中で声をかけてくださったもう一人の真田丸ファンの方ともご一緒したおかげで、よく分からなかった道すがらも無事にたどり着くことができてホッとしました(私は特に極度の方向音痴なので 汗)。あの時ご一緒できて本当に良かったです。ありがとうございました。
上田駅からバスで20分以上…かなり山の中のほうだったでしょうか。最初はあまり人の集まりが良くなかったようでしたが、講演会が始まるころには300人入る会場もほぼ埋まるという盛況ぶりでした。
壇上には小栗さくらさんから贈られた豪華なお花が飾ってありましたよ~。さくらさんのこういう気遣い本当に素敵ですね。
上田映劇での暗さとは裏腹にこの会場はとても明るかったのでけっこうメモ取れました。が、前日の疲れがたたって途中少しだけ意識が…。そこだけは記憶が飛んでしまってましてホント申し訳ないです(汗)。
講演は1部と2部に分かれて行われまして、休憩時間の間に事前に募集した質問を先生方が整理するといった形となりました。ということで、さっそく内容について少しレポしていきます。
『真田丸』シンポジウム ~大河ドラマ最終回に向けて~
ゲスト : 平山優先生、黒田基樹先生、丸島和洋先生
於.真田中央公民館(長野県真田町)
2016.12.18 14:00~16:00
写真撮影は自由だったので少しだけ撮らせていただきました。当日のお三方の雰囲気はこんな感じです。平山先生は初めて拝見することになったわけですが…第一印象で真っ先に思ったのが…「あ、ヨン様」でしたww。いやだって、なんか、見た目がそう感じてしまったものでww。実年齢よりもお若く見えてビックリしました。司会者がいなかったので実質的にトークを回していたのは平山先生でしたね。登場するなり「わたしたち考証’sと名乗ってます」とのっけからコメントしてて笑いました。
平山先生のトークはさらに面白く、黒田先生に先に「真田信之」の本を出されてしまったとボヤいたりww、真田丸飲み会で初めて洋ちゃんに会った時本を書いてることを伝えたら「もうすぐ撮影終わっちゃうんだよねぇ」と言われてしまったと洋ちゃんのモノマネして再現してくれてたりwwなんとも面白い方だなぁと思いました。ちなみに本を出すのに一番早いのが黒田先生で、次が平山先生、一番遅いのが丸島先生らしいですww。
丸島先生
放送前に弁丸(信繁の幼名)が木曽から出した手紙が出てきたとプロデューサーに話したら「信繁が木曽から帰ってこないと困るから使えない」と言われたそう。しかし三谷さんが、木曽義昌が信繁の祖母とりさんに頭が上がらないシーンを書いてくれて上手い具合に絡めてくれて助かったと。出てきた手紙は信繁が木曽に人質に行ったときに書いた手紙だったそうです。
黒田先生
調べる中で出てきた新しい事実の一つだったのが信繁が秀吉の馬廻りだったということ。秀吉が朝鮮出兵で名護屋城へ行っている時に留守を守っていた人の中に「真田源次」という名前がありその当時この名前を使ったのは信繁しかいないということで確実視したのだそう。ドラマの制作としては上杉と一緒に信繁を大阪に連れて行きたい意図があって、その後どう動かして秀吉の傍に信繁を持っていけばいいのか話し合っていた最中。この時まだ馬廻りの事実確認が取れていなかったので、信繁は三成の居候という立場に持っていこうということになっていたんだそうです。
ドラマとしては常に主人公を主要人物の傍に持って行かざるを得ない事情があるので(笑)制作はかなり頭をひねっていたそうですが、その時に馬廻りだったことがハッキリわかってあのような形になったと。秀吉の馬廻りという設定が生かせたことでドラマでも信繁が最後まで豊臣に恩義を感じているという風に描くことができたのでよかったと語られてました。
平山先生
木曽にいたことや馬廻りだったことが分かった時は本当にびっくりして嬉しかったそうです。歴史というのは常に動くものであり解釈が変わったり新資料が出てきたりするものですと。通説は固定化されたものではないということはかなり強調されてました。今回三谷さんは考証の意見をたくさん取り入れてくれて感謝しているそうですが、大河ドラマ放送中は皆さん三谷さんにほぼ会ったことがないそうです。丸島先生だけはちょこっと会ったことがあったようですが。
これまで描かれてきた通説と違う点で印象深かったエピソードについて。
丸島先生
秀次事件。当初は秀次が抗議のために自発的に切腹した説を入れようかと思っていたものの納得はしていなかったそう。その時ある先生と話していて、秀次は高野山へ自分から出奔してしまったという論文があると聞いたと。これを読んだときにすごく腑に落ちるものがあってプロデューサーと相談して使うことになったと。三谷さんのアレンジも少しはいっていたものの、良いシーンになったと満足げでした。ちなみ秀吉が秀次の死にショックを受けて怒り狂うシーンの所、本当はそのあと三成が「私が全て泥をかぶる」というカッコいいセリフがあったのにカットされてしまったと残念そうでした。
秀次の新事実がこのタイミング出てきたのはとても良かったと平山先生。新納くんの熱演もかなり光っていたのも印象的だったと。新納くんは秀次関係の抱擁などには必ず顔を出しているんだそうです。
黒田先生
今通説とされているものは江戸時代に創られたものが多く、最近ようやく調べが進んでいろんなことが分かってきたそう。そのうちのひとつが第二次上田合戦の秀忠の行動。これまでは秀忠が勝手に上田を攻めて失敗して関ヶ原に遅れたということになっていましたが、最新の研究は秀忠の第一の目標は上田を攻略して先に進むことだったというのが有力だと。いろいろ事情があって家康の出陣がバタバタになった影響で秀忠に上田は後回しにしろという命が下ったというのが真相らしいそうですね。
あと関ヶ原の新事実としては秀秋が関ヶ原当日に裏切ったというのは江戸時代の創作だそうで、実はその前日から秀秋が徳川につくことは決まっていたと。秀秋は開戦と同時に大谷吉継を攻め立てて昼過ぎには雌雄が決していたそうな…。ある資料には8時には開戦して10時には終わったと書いてあるらしい。こんな感じで従来までの関ヶ原説は今ではだいぶ変わってきているとの事でした。
平山先生はこれに関連して、これまでの歴史の通説は後年作られた机上の空論みたいなものが非常に多いので、若い研究者には基礎からきちんと調べてほしいと力説していました。
平山先生
大坂冬の陣の後に家康から大坂城の堀を埋めろと強制的に言われたというのが通説でしたが、実はあれは合意説が有力なんだそう。内堀は豊臣が埋めて総堀は徳川が埋めるということで決着していた。人が亡くなると人ごと埋めていたらしく、今でも発掘していると人骨が出てくることもあるんだとか。その当時は雪が降るほど寒くて徳川は埋め立てをものすごく急がせたとのこと。
豊臣がなぜ堀埋めるのに了承したのかは、平山先生的には牢人に諦めてもらう為だと思っているそうです(まだ確定事項ではないそうですが)。
丸島先生
関ヶ原はやらないことは最初から決まっていたので、三谷さん的にはそれまでの心情を描きたいという希望があったそう。それに伴い制作にお願いした一つとして「五大老は使わないでほしい」ということだったと(大人衆になった)。それから三成の家康襲撃未遂事件を入れてもらった。七将襲撃事件に関しては通説では三成が家康屋敷に逃げ込んだとされていますが、実際は伏見城内の三成屋敷に逃げ込んだことが分かっていたのでそれを採用したところ、話が違うという拒否反応が出てしまったと苦笑いしてました。でも、三谷さんは自分たちの要望以上のものをドラマに取り入れてくれたと語っていましたね。
もう一つは大谷吉継の病について。皮膚病というのは間違いないそうで、直江兼続への書状の中に「温泉で療養してきました」という一文があるらしいです。兼続と吉継・・・けっこういい関係だったんだな~と思わず反応してしまった。この頃から目はよく見えなかったようで刻印を使用してたと。それをドラマで採用してもらえたようです。
もう一つ誤解を招いてるのが三成の茶会。吉継の皮膚の一部がお茶に落ちてしまったのを三成が飲むというエピソードですが、あれは創作で。実際は飲んだのが秀吉で落ちたのは鼻水だったとのこと。
小物類もかなり携わったということで、書状などは丸島先生がほぼ担当(黒田先生がチェック係)し、平山先生は主に地図作りを担当したのだそうです。
※このあたりはメモが読めない状態です(爆)。すみません
平山先生
第一次上田合戦の地図を作った時に「虚空蔵山」という山の名前を入れていたら、以前に「虚空蔵山城」が出てきたので(直江兼続が「猿芝居じゃ」の名セリフを言ったあの時の城ですな)名前を変えてほしいという依頼があったと。そこで思いついたのが地元の人にしかわからない「かいこ山」という名称だったそう。「あれはただの小高い山なんですよ」と力説してたなww。周囲(上田の人)からは「そんな山知らない」って言われたけど地元・真田町の人たちは「かいこ山」の存在を知っているということで会場からもチラホラ挙手が上がり「ほらほら!」と平山先生ドヤ顔してましたww。
でも、ドラマでも草刈さんが「かいこ山」とセリフの中で言ってくれて喜んでいたら、「そんな山知らないぞ」という苦情めいたものが殺到して大変だったらしいです
丸島先生
書状作成に携わった数は177通にも上るとの事(僕は書いてないと前もって仰ってましたがw)!花押も当時のものをコピーしたものを制作陣に渡すという細かい作業も担当していたそうです。美術さんからは寸法とかも質問されて「細かいな」と苦笑いだったらしいw。
書状に関してはテレビを見ていて画面をストップしてわざわざチェックしている人がいるらしく「あの内容はよくできている」とかそういった感想がきていてビックリしたと(映像技術が進んじゃったからと平山先生は笑ってましたw)。
家康についての話題。平山先生曰く、家康自身には秀頼を潰そうという気持ちは全くなかったとの事。大坂夏の陣に関して資料を見ると「大坂国替」とあるし、駆けつける時は武装しないようにというお達しもあったようです。
考証sで意見が割れたのは、小松殿(ドラマでは稲さん)が関ヶ原開戦の時に沼田に戻っていたかどうか・・・ということだったそう。黒田先生は大坂にいた説、平山先生は沼田にいた説、丸島先生も沼田にいた説ということで、未だにその点においては未だに揉めてる感じでした。
黒田先生
ドラマの進行上どうしても外してほしくないエピソードをリクエストされることも多かったそうで、その最もたるものが「犬伏」だったと。ある資料ではあの別れは犬伏ではなかったみたいな解釈も出てきてたらしく(手前の宿説)、犬伏で別れたかどうかは曖昧と。でもドラマ的には視聴者に分かりやすくしなければいけないので結局「犬伏」で統一させたのだそうです。
視聴者に分かりやすくというのは制作側から強く言われていたようで、乱の名前も漢字変換がすぐにできないものは外すように指示があったとか。「天下」の解釈についても家康や秀吉の時代は京都周辺を差しているもので、江戸時代後半から全国という意味に変わってきたというのが真実だけれども、現代は「全国」という意味が浸透しているのでドラマの中では意味合いとして「全国」という意味が少し薄まるニュアンスで「天下」という言葉を使ってもらったとの事です。色々言葉ひとつとっても細かい苦労があるんだなと思いました。
「幸村」名についてはもう仕方がなかったと3人(笑)。ただOPやナレーションなどでは「信繁」で統一してもらう事だけはこだわったようです。「幸村」という名前の由来がどうやって出てきたのか未だによく分からないと。江戸時代後期に突然出てきた名前なので、聞かれても分からないと答えたらドラマではあのような展開になったそうなw。九度山町の町長はドラマで「幸村」の名前ができるシーンを見て「幸せの村と宣伝できる」と大喜びしてたらしいですww。
平山先生曰く、これまでの大河ドラマの中でここまで視聴者と近いものはなかったと思うと。
平山先生は以前「武田信玄」に関わったことがあるそうですが、その時は脚本家と食事をしたりしながら案を練っていた。しかしながら今回は三谷さんに会うこともなくプロデューサーとのやり取りが多かったとのこと。「こっちの情報量多すぎだからプロデューサーに整理してもらわなきゃだったしね」とは丸島先生談ですw。
ただ、不満もやはりあるらしくww。
丸島先生は入院してしまった時、最初は「ゆっくり養生してください」と言ってくれたのにその舌の根も乾かないうちにプロデューサーから「これお願いします」みたいな依頼がちょくちょくきてたとw。続けてるうちに電話が来ないことがかえって不安に思うようになっていたら、今度は以来側のプロデューサーが倒れてたみたいなことがあったそう。
考証の先生たち、こんな感じで休みがほとんどない状態だったそう。すべてが終わったのがこの公演の前日に制作側から終了宣言があったとのことです。最後の考証は総集編のナレーションの内容チェックだったそうですよ。
平山先生の不満は「僕たち芸能人じゃないのに、真田丸のおかげでどこ行っても声かけられちゃう」ってことみたいです。丸島先生も「どこかに行っても必ず誰かいてサイン求められちゃうから仕方なくホテルで食事した」とか言ってたなww。皆さん、あまり、外で声をかけられるのは慣れていないようです(ホントか冗談か分かりませんけどww)
てな話になったところで第一部終了。休憩挟んで第二部になります。
第2部はひたすら事前に寄せられた質問に先生方が答えていくというスタイルで進んでいきました。メモができたものをずらっと並べていきます。
Q.きりは結局何者なのか?
分かっているのは高梨内記の娘ということだけ。信繁の三女四女は内記の娘の子供の可能性が高いと。信繁は2男6女の子供をもうけていて4女までが作兵衛の娘(梅)と内記の娘(きり)が信濃時代に産んだと推定。あとは九度山時代に産まれてるそう(暇だからね、とは平山先生談ww)
Q.すえについて
信繁の最初の娘すえは長生きしたそう(家光の時代まで生きた)。冬の陣の後に信繁がダンナさんに宛てた手紙は胸打つものがあるのだとか。
ちなみに信繁が春たち家族を政宗に預けたというのはドラマの創作との事です。実際はどうなったかよく分からないそうですが、片倉小十郎家に後妻に入ったのが信繁の娘ではないかと言われていると(彼女は乱捕りされて片倉家に入った説があるとのこと)。実際信繁の家族は大坂落城後にはぐれてしまい、竹林院(春)は子供と信繁の遺品を抱え九度山にかくまわれたものの捜索隊に捕らえられる。しかし殺されず京都で余生を送ったとのことです。春さん、波乱万丈の人生でしたね…。梅さんの末路は全くどうなったのか分からないそうです(上田合戦で死んだのはドラマの創作)
Q.信繁が信之の子供に会っていたというのは史実か?
会いに行ったのは史実だということですが、信吉が最後に信繁に会った時はまだ4歳だったとのこと。村松殿(松)に宛てた手紙では茂誠の子供にはよく会っていたことが分かる文面が綴られているようです。
Q.冬の陣で使われた大筒はどんなものか?
イギリス商人から購入したもの。ドラマでは一発しか打ち込んでませんでしたが、実際はボコボコになるほど打ちまくっていたと(その音は京都まで響いていた)。大坂城は鉄壁の城とドラマでさんざん言ってたけど実際はほころびが多く大筒打ち込まれて総構えの櫓は堀に落ちたと記録にあるそうな。家康が総攻撃を命じようとしたという記録もあるので、もしかしたら冬の陣で豊臣は滅んでいたかもしれないと。
ドラマでは砲弾が天守に命中してたけどあれは創作。天守に当たったという記録は一つもない。茶々の部屋が壊されて侍女が死んだというのは記録にあるそうです。
Q.架空の配役は誰?
加藤清正に井戸に落とされた人と、佐助、与八、九度山からついていった九兵衛(九度山から行った人はいるけど彼は架空の人物)
Q.信之は本当に正妻のほかに女性を求めていたのか?
当時はそういうものです(丸島先生談www)
Q.真田丸の中で妻にするならだれがいいですか?
丸島先生→「妻にするなら直江兼続でしょ!!!」wwwww
黒田先生→「おれは茶々さんだな」ww
Q.治部と刑部は御文庫で何を読んでいたのか?
財政の帳簿だと思います
Q.夏の陣前に信之が上洛して信繁を説得したのは本当の話か?
真田太平記出会った話を出したと思うので史実ではないです。九度山時代に一度だけ会いに行ったのは史実だとか。
Q.ドラマのなかでの一押し人物は?
黒田先生→北条氏政
平山先生→武田勝頼
丸島先生→おこう
おこうさんは色んな説があったけれどドラマではそのすべて生かした人物として描いてもらえたんだそう。
Q.意見が割れたときはどうしていたのか?
平山先生曰く、「丸島の意見優先です」とのことwwww
Q.真田丸で間に合わなかった学説は?
後藤又兵衛の戦死の経緯。「もっと早く出てよ~」とは平山先生談w
Q.九度山で歌っていた歌について
「雁金踊り」というネーミングをつけたのは丸島先生だそうです。「雁金踊り、上田祭りの時に踊ればいいのにねぇ」と思わず平山先生ポロリw。
Q.幸村は本当に銃で家康を襲おうとしたのか?
江戸時代の資料なので実際はどうか分からない
Q.3人とも声がいいので何か言ってください
丸島先生→「御屋形様は本気になられた」(村上さんのモノマネでやってましたww)
平山先生→「〃」(声だけは福山って言われるそうなwww)
黒田先生→「斬り捨てますか」(こちらも負けじと村上さん風味でwwww)
考証sの先生方の間でも、村上新悟さんの直江兼続は大人気でございました
Q.歴史資料調べる時に気を付けることは?また楽しいと思う瞬間は?
黒田先生
「まずは古文書は外国語だと思って辞書をきちんと引いて調べること。嬉しいことは新しい事実が分かった時。それがあるから研究は止められない」
平山先生
「研究者は肉体労働。資料集を読んだときにテーマを3つくらい見つけないと研究者失格」
丸島先生
「余談を持たないことが大切。徳川家を例に挙げれば家康は始めから豊臣を滅ぼすつもりはなく徳川を守ろうということで結果的にあのような形になってしまった。ゴールは設定しないことを忘れないでほしい。あとは先行研究に敬意を払うのも大切。楽しいのは新しい資料を見つけた時」
Q.歴史の仕事をやるうえでのアドバイスは?
とにかく地元を歩いて交流してほしい。辞書を引いても分からない、地元の人しかわからない話もある。それから展示するときにはストーリー性を持たせてほしいとの事でした。
Q.信繁と信之の性格の違いは?
会ったことがないのでわからないwww。信之は頑固っぽいけど。
Q.憎らしいけど憎めないキャラは?
現実にいる人だったら平山先生じゃないですか!という丸島先生に「黙れ小童!」と応戦する平山先生www。で結局丸島先生は「大蔵卿局です」とのことw。
Q.三谷脚本で一番驚いたエピソードは?
平山先生→太閤検地を升で表現したシーン
丸島先生→信繁が落書き事件の時に疑わしかった人を犯人に仕立ててしまったシーン(三谷さんは意識しないでこの場面を描いたと思うけど当時は本当にそういう風習があったらしい)
黒田先生→九度山で昌幸の晩年、自分は戦う人ではないと諦めるシーン。時代の移り変わりがよく出ていた
Q.真田十勇士は存在してない?
してないし、十勇士の一人は徳川方だったりしますwwww
Q.大野治長と信繁の実際の関係は?
治長は穏健派で信繁は主戦派だったので、実はあいつら仲悪かったのではないかと(黒田先生談ww)。盛親は抗戦派だったそう
Q.矢澤家について教えて
「矢沢はいいんじゃない?」(平山先生談wwww)
「三十郎だからね」(丸島先生談wwww)
あわれ、矢沢三十郎
Q.上田城を再建しなかったのは何故?
上田城は徹底的に破壊されてしまったので、やり直すの大変だっただろうしそんな暇なかったと思う
Q.三谷さんとのやり取りは?
直でやったことはないのですが、素朴な疑問はたくさんもらってそれに答える感じ。堀の埋め立てが五箇条に書いてないのはなぜかについては別の資料に書いてあったことが分かったなんてこともあったそう。
Q.堺さんが歴史資料で指摘したことでビックリしたエピソードは?
丸島先生が手配した関ヶ原の大名配置図の間違いを指摘したのはビックリした。「誰」の読み方は「たれ」か「だれ」かと聞いてきたことも。堺さんは「たれ」と言っていたので他の役者さんもそれに倣ったとか。
真田丸に関わって色々資料を調べてきたけど、基礎資料はほとんど発掘されていない。すべて解明するのには少なくとも5-6年はかかりそうとのことです。歴史資料は奥が深い…!
Q.出浦昌相の描かれ方についてどう思ったか?
素破がドロンしたり妙な物投げたりといったのは創作ですしあれは無しです(平山先生談w)
Q.また声がかかれば大河ドラマの考証をやってみたいか?担当するとしたら誰のどんな時代がいい?
黒田先生
研究者はもっと研究成果を出してほしいと思った。事前に知っていればよかったというものも多かった。吉継は三成の年下というのも最近判明。やりたい大河は「北条五代」
丸島先生
時代考証で出したことを制作が上手く使ってくれた。辛いことはあったけど不満はなく気持ちよく仕事をさせてもらえた。次はもう大変なのでやりたくないw。やりたい大河は「武田勝頼」
平山先生
20数年前とはかなり環境が変わったというのが第一印象。スタッフと濃密にかかわってやれたことはすごく嬉しかったしドラマを見ていて楽しかった(有働さんのナレも安定してきたしw)。色んな用語も出てきて考証中までもちょくちょく使ってた。有働さんにサインをお願いしたら「ナレ死担当」と一言添えてあったらしいww。やりたい大河は「武田勝頼」
最後に、「真田丸」最終回は録画せずにしっかり見てくださいと。「裏番組の○ってQ見ないで」(平山先生談ww)。最終回くらい高い視聴率でいきたいと気合のコメントをする平山先生なのでしたw。
丸島先生からは信尹叔父上(栗原英雄さん)からの伝言が伝えられることに。
「家に帰るまでが遠足です。真田丸は総集編を見るまでが真田丸なのでそれまでは下船しないでください」
これ、前日の調略ナイトで栗さんが最後にコメントしたやつですなw。丸島先生来てたのか~。
ということで、考証sの先生方のトークショーはこれにてお開きとなりました。様々な興味深い話が聴けてとても楽しかったです。箱丸する時にこの話を思い出すとさらに楽しめそう。
以上、真田丸考証の先生たちによるトークショーレポ終わります。
この後、急ぎ最終回PVの現場へ向かうことになったのですが…波乱含みでしてw。それはまた次のレポで