前日の毎日ライブトークショーでテンション使い切ったような感じになっていた私ですがw、実はその翌日18日の「真田丸」最終回パブリックビューイングにも当選していまして。これが始まるのが17時15分頃からということで、それまでの時間の使い方を全く考えてなかった私イベントで村上新悟さんに会うことに集中しすぎていたためw翌日イベントまでの過ごし方を考慮しておらず途方に暮れていたところ…、前日お会いしたSNSのお友達が誘ってくださったのが「真田丸シンポジウム」でした。時代考証の先生が3人集結して真田丸に関する歴史的な裏話を披露してくださるトークショーがあるということをこの時初めて知った次第で。せっかくなのでご一緒させていただくことにしました。
途中で声をかけてくださったもう一人の真田丸ファンの方ともご一緒したおかげで、よく分からなかった道すがらも無事にたどり着くことができてホッとしました(私は特に極度の方向音痴なので 汗)。あの時ご一緒できて本当に良かったです。ありがとうございました

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上田駅からバスで20分以上…かなり山の中のほうだったでしょうか。最初はあまり人の集まりが良くなかったようでしたが、講演会が始まるころには300人入る会場もほぼ埋まるという盛況ぶりでした。
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壇上には小栗さくらさんから贈られた豪華なお花が飾ってありましたよ~。さくらさんのこういう気遣い本当に素敵ですね。

上田映劇での暗さとは裏腹にこの会場はとても明るかったのでけっこうメモ取れました。が、前日の疲れがたたって途中少しだけ意識が…そこだけは記憶が飛んでしまってましてホント申し訳ないです(汗)。
講演は1部と2部に分かれて行われまして、休憩時間の間に事前に募集した質問を先生方が整理するといった形となりました。ということで、さっそく内容について少しレポしていきます。


『真田丸』シンポジウム ~大河ドラマ最終回に向けて~
ゲスト : 平山優先生、黒田基樹先生、丸島和洋先生

於.真田中央公民館(長野県真田町)
2016.12.18  14:00~16:00  

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写真撮影は自由だったので少しだけ撮らせていただきました。当日のお三方の雰囲気はこんな感じです。平山先生は初めて拝見することになったわけですが…第一印象で真っ先に思ったのが…「あ、ヨン様」でしたww。いやだって、なんか、見た目がそう感じてしまったものでww。実年齢よりもお若く見えてビックリしました。司会者がいなかったので実質的にトークを回していたのは平山先生でしたね。登場するなり「わたしたち考証’sと名乗ってます」とのっけからコメントしてて笑いました
平山先生のトークはさらに面白く、黒田先生に先に「真田信之」の本を出されてしまったとボヤいたりww、真田丸飲み会で初めて洋ちゃんに会った時本を書いてることを伝えたら「もうすぐ撮影終わっちゃうんだよねぇ」と言われてしまったと洋ちゃんのモノマネして再現してくれてたりwwなんとも面白い方だなぁと思いました。ちなみに本を出すのに一番早いのが黒田先生で、次が平山先生、一番遅いのが丸島先生らしいですww。

丸島先生
放送前に弁丸(信繁の幼名)が木曽から出した手紙が出てきたとプロデューサーに話したら「信繁が木曽から帰ってこないと困るから使えない」と言われたそう。しかし三谷さんが、木曽義昌が信繁の祖母とりさんに頭が上がらないシーンを書いてくれて上手い具合に絡めてくれて助かったと。出てきた手紙は信繁が木曽に人質に行ったときに書いた手紙だったそうです。

黒田先生
調べる中で出てきた新しい事実の一つだったのが信繁が秀吉の馬廻りだったということ。秀吉が朝鮮出兵で名護屋城へ行っている時に留守を守っていた人の中に「真田源次」という名前がありその当時この名前を使ったのは信繁しかいないということで確実視したのだそう。ドラマの制作としては上杉と一緒に信繁を大阪に連れて行きたい意図があって、その後どう動かして秀吉の傍に信繁を持っていけばいいのか話し合っていた最中。この時まだ馬廻りの事実確認が取れていなかったので、信繁は三成の居候という立場に持っていこうということになっていたんだそうです。
ドラマとしては常に主人公を主要人物の傍に持って行かざるを得ない事情があるので(笑)制作はかなり頭をひねっていたそうですが、その時に馬廻りだったことがハッキリわかってあのような形になったと。秀吉の馬廻りという設定が生かせたことでドラマでも信繁が最後まで豊臣に恩義を感じているという風に描くことができたのでよかったと語られてました。

平山先生
木曽にいたことや馬廻りだったことが分かった時は本当にびっくりして嬉しかったそうです。歴史というのは常に動くものであり解釈が変わったり新資料が出てきたりするものですと。通説は固定化されたものではないということはかなり強調されてました。今回三谷さんは考証の意見をたくさん取り入れてくれて感謝しているそうですが、大河ドラマ放送中は皆さん三谷さんにほぼ会ったことがないそうです。丸島先生だけはちょこっと会ったことがあったようですが。

これまで描かれてきた通説と違う点で印象深かったエピソードについて。

丸島先生
秀次事件。当初は秀次が抗議のために自発的に切腹した説を入れようかと思っていたものの納得はしていなかったそう。その時ある先生と話していて、秀次は高野山へ自分から出奔してしまったという論文があると聞いたと。これを読んだときにすごく腑に落ちるものがあってプロデューサーと相談して使うことになったと。三谷さんのアレンジも少しはいっていたものの、良いシーンになったと満足げでした。ちなみ秀吉が秀次の死にショックを受けて怒り狂うシーンの所、本当はそのあと三成が「私が全て泥をかぶる」というカッコいいセリフがあったのにカットされてしまったと残念そうでした。
秀次の新事実がこのタイミング出てきたのはとても良かったと平山先生。新納くんの熱演もかなり光っていたのも印象的だったと。新納くんは秀次関係の抱擁などには必ず顔を出しているんだそうです。

黒田先生
今通説とされているものは江戸時代に創られたものが多く、最近ようやく調べが進んでいろんなことが分かってきたそう。そのうちのひとつが第二次上田合戦の秀忠の行動。これまでは秀忠が勝手に上田を攻めて失敗して関ヶ原に遅れたということになっていましたが、最新の研究は秀忠の第一の目標は上田を攻略して先に進むことだったというのが有力だと。いろいろ事情があって家康の出陣がバタバタになった影響で秀忠に上田は後回しにしろという命が下ったというのが真相らしいそうですね。
あと関ヶ原の新事実としては秀秋が関ヶ原当日に裏切ったというのは江戸時代の創作だそうで、実はその前日から秀秋が徳川につくことは決まっていたと。秀秋は開戦と同時に大谷吉継を攻め立てて昼過ぎには雌雄が決していたそうな…。ある資料には8時には開戦して10時には終わったと書いてあるらしい。こんな感じで従来までの関ヶ原説は今ではだいぶ変わってきているとの事でした。

平山先生はこれに関連して、これまでの歴史の通説は後年作られた机上の空論みたいなものが非常に多いので、若い研究者には基礎からきちんと調べてほしいと力説していました。

平山先生
大坂冬の陣の後に家康から大坂城の堀を埋めろと強制的に言われたというのが通説でしたが、実はあれは合意説が有力なんだそう。内堀は豊臣が埋めて総堀は徳川が埋めるということで決着していた。人が亡くなると人ごと埋めていたらしく、今でも発掘していると人骨が出てくることもあるんだとか。その当時は雪が降るほど寒くて徳川は埋め立てをものすごく急がせたとのこと。
豊臣がなぜ堀埋めるのに了承したのかは、平山先生的には牢人に諦めてもらう為だと思っているそうです(まだ確定事項ではないそうですが)

丸島先生
関ヶ原はやらないことは最初から決まっていたので、三谷さん的にはそれまでの心情を描きたいという希望があったそう。それに伴い制作にお願いした一つとして「五大老は使わないでほしい」ということだったと(大人衆になった)。それから三成の家康襲撃未遂事件を入れてもらった。七将襲撃事件に関しては通説では三成が家康屋敷に逃げ込んだとされていますが、実際は伏見城内の三成屋敷に逃げ込んだことが分かっていたのでそれを採用したところ、話が違うという拒否反応が出てしまったと苦笑いしてました。でも、三谷さんは自分たちの要望以上のものをドラマに取り入れてくれたと語っていましたね。
もう一つは大谷吉継の病について。皮膚病というのは間違いないそうで、直江兼続への書状の中に「温泉で療養してきました」という一文があるらしいです。兼続と吉継・・・けっこういい関係だったんだな~と思わず反応してしまった。この頃から目はよく見えなかったようで刻印を使用してたと。それをドラマで採用してもらえたようです。
もう一つ誤解を招いてるのが三成の茶会。吉継の皮膚の一部がお茶に落ちてしまったのを三成が飲むというエピソードですが、あれは創作で。実際は飲んだのが秀吉で落ちたのは鼻水だったとのこと

小物類もかなり携わったということで、書状などは丸島先生がほぼ担当(黒田先生がチェック係)し、平山先生は主に地図作りを担当したのだそうです。
※このあたりはメモが読めない状態です(爆)。すみません

平山先生
第一次上田合戦の地図を作った時に「虚空蔵山」という山の名前を入れていたら、以前に「虚空蔵山城」が出てきたので(直江兼続が「猿芝居じゃ」の名セリフを言ったあの時の城ですな)名前を変えてほしいという依頼があったと。そこで思いついたのが地元の人にしかわからない「かいこ山」という名称だったそう。「あれはただの小高い山なんですよ」と力説してたなww。周囲(上田の人)からは「そんな山知らない」って言われたけど地元・真田町の人たちは「かいこ山」の存在を知っているということで会場からもチラホラ挙手が上がり「ほらほら!」と平山先生ドヤ顔してましたww。
でも、ドラマでも草刈さんが「かいこ山」とセリフの中で言ってくれて喜んでいたら、「そんな山知らないぞ」という苦情めいたものが殺到して大変だったらしいです

丸島先生
書状作成に携わった数は177通にも上るとの事(僕は書いてないと前もって仰ってましたがw)!花押も当時のものをコピーしたものを制作陣に渡すという細かい作業も担当していたそうです。美術さんからは寸法とかも質問されて「細かいな」と苦笑いだったらしいw。
書状に関してはテレビを見ていて画面をストップしてわざわざチェックしている人がいるらしく「あの内容はよくできている」とかそういった感想がきていてビックリしたと(映像技術が進んじゃったからと平山先生は笑ってましたw)

家康についての話題。平山先生曰く、家康自身には秀頼を潰そうという気持ちは全くなかったとの事。大坂夏の陣に関して資料を見ると「大坂国替」とあるし、駆けつける時は武装しないようにというお達しもあったようです。

考証sで意見が割れたのは、小松殿(ドラマでは稲さん)が関ヶ原開戦の時に沼田に戻っていたかどうか・・・ということだったそう。黒田先生は大坂にいた説、平山先生は沼田にいた説、丸島先生も沼田にいた説ということで、未だにその点においては未だに揉めてる感じでした

黒田先生
ドラマの進行上どうしても外してほしくないエピソードをリクエストされることも多かったそうで、その最もたるものが「犬伏」だったと。ある資料ではあの別れは犬伏ではなかったみたいな解釈も出てきてたらしく(手前の宿説)、犬伏で別れたかどうかは曖昧と。でもドラマ的には視聴者に分かりやすくしなければいけないので結局「犬伏」で統一させたのだそうです。
視聴者に分かりやすくというのは制作側から強く言われていたようで、乱の名前も漢字変換がすぐにできないものは外すように指示があったとか。「天下」の解釈についても家康や秀吉の時代は京都周辺を差しているもので、江戸時代後半から全国という意味に変わってきたというのが真実だけれども、現代は「全国」という意味が浸透しているのでドラマの中では意味合いとして「全国」という意味が少し薄まるニュアンスで「天下」という言葉を使ってもらったとの事です。色々言葉ひとつとっても細かい苦労があるんだなと思いました。

「幸村」名についてはもう仕方がなかったと3人(笑)。ただOPやナレーションなどでは「信繁」で統一してもらう事だけはこだわったようです。「幸村」という名前の由来がどうやって出てきたのか未だによく分からないと。江戸時代後期に突然出てきた名前なので、聞かれても分からないと答えたらドラマではあのような展開になったそうなw。九度山町の町長はドラマで「幸村」の名前ができるシーンを見て「幸せの村と宣伝できる」と大喜びしてたらしいですww

平山先生曰く、これまでの大河ドラマの中でここまで視聴者と近いものはなかったと思うと。
平山先生は以前「武田信玄」に関わったことがあるそうですが、その時は脚本家と食事をしたりしながら案を練っていた。しかしながら今回は三谷さんに会うこともなくプロデューサーとのやり取りが多かったとのこと。「こっちの情報量多すぎだからプロデューサーに整理してもらわなきゃだったしね」とは丸島先生談ですw。

ただ、不満もやはりあるらしくww。
丸島先生は入院してしまった時、最初は「ゆっくり養生してください」と言ってくれたのにその舌の根も乾かないうちにプロデューサーから「これお願いします」みたいな依頼がちょくちょくきてたとw。続けてるうちに電話が来ないことがかえって不安に思うようになっていたら、今度は以来側のプロデューサーが倒れてたみたいなことがあったそう
考証の先生たち、こんな感じで休みがほとんどない状態だったそう。すべてが終わったのがこの公演の前日に制作側から終了宣言があったとのことです。最後の考証は総集編のナレーションの内容チェックだったそうですよ。
平山先生の不満は「僕たち芸能人じゃないのに、真田丸のおかげでどこ行っても声かけられちゃう」ってことみたいです。丸島先生も「どこかに行っても必ず誰かいてサイン求められちゃうから仕方なくホテルで食事した」とか言ってたなww。皆さん、あまり、外で声をかけられるのは慣れていないようです(ホントか冗談か分かりませんけどww)

てな話になったところで第一部終了。休憩挟んで第二部になります。



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